20年ぶりのBand Of Pleasure

2016/01/17 at 23:13

B.O.P.16.01_a1/14(木)~16(土)の3日間、青山のBlue Noteで、20年ぶりの同窓会 Live!メンバーは、David T. Walker(g)、James Gadson(ds)、山岸潤史(g)、清水興(e-b)と私の日米混成バンド。本当に感無量でした。去年(2015)、2/5にMarlena Shawの「“Who Is This Bitch Anyway?” リユニオン・ツアー」@高松に、危うくキーボーディストのトラ(代役)を務める羽目になりかけた椿事がありました。(詳しくは→拙記事「Who Is This Bitch Anyway?」)その時、ツアーに参加していたDavidと再会し、ゆっくり話す時間があったので、バンプレのリユニオンをしたいねと、持ちかけたら、「随分時間が経ってるけど、ジュンや、コー、ギャドもやりたい気持ちがあるかなあ?」と訊ねられ、「120%やりたいに決まってるよ。」「うん、それならL.A.に帰ったら、ジュンに電話して、皆にも連絡してみよう。」そして昔の事、今の事等々、話が咲きました。振り返ると、これがきっかけとなって、Davidがリユニオンに向けて、俄然やる気を起こしたのかなあと思います。(縁は異なもの‥‥、What A Difference A Day Made‥‥)

Beforeband_of_pleasure1994

20年も経ってしまったのかと思うと、月日の重みを感じますが、公演前日のリハーサルで皆と顔を合わせた途端、体が覚えている、このバンド特有の空気が戻ってきて、私の中の20年の隔たりがとけてしまいました。

BeforeB.O.P.in USA

AfterB.O.P.16.01_b

このバンドの5人は、昔からそれぞれの人柄が思い切りリアルに出てくる取り合わせで、人間的性格や音楽家気質も違うのに、こと、一緒に音を出すと、自然にうまくいってしまうマジックが働くのです。その曲の最低限の約束ごとの他は、お互いに対して、特に何かを要求するということはほとんどなく、皆の出す音を聴きながら、それぞれが、自分らしいことをやれば、そのままバンプレの音になってしまうのです。不思議としか言いようがありません。ともあれ、Davidも、Gadsonもアメリカ人には珍しく、天然物の「人見知りのはにかみ屋」さん。何となく、照れくさい雰囲気もあり、ステージ付きのPAエンジニアーによると、リハーサルから日にちを重ねるにつれて、「お互いをじっくり確かめ合いながら、よりを戻していくようなリアルな感じが伝わってきた。」そうです。そんな、人間的な要素も含めて、どこを切ってもバンプレそのものの3日間でした。B.O.P.16.01_c夢見心地の至福の3日間もあっという間、最終日最後のセット、最後の曲”You Are My Sunshine”も、そしてアンコールも終り、ステージから下りて、いよいよ楽屋口から一歩入ったところで、山岸に「名残惜しいなあ~〜」とつぶやいたら、彼も「うん、名残惜しいわ~〜」と。それで、自然に「やっぱり、もう一曲やっとこ」と、他の皆の背中を押してステージに引き返し、「Best Thing That Ever Happend To Me、今の気持ち、これやわ」とアンコールのアンコールとなりました。

今回は東京のみのLiveとなり、大阪や沖縄、遠くから駆けつけて下さったファンも少なくありません。客席をみると、懐かしい顔があちこちに、そして、その顔に20年の年輪が刻まれていました。ステージも客席も渾然一体となり、会場全体が20年ぶりの同窓会となりました。皆さんの温かい声援が、いまも心に響いています。有難うございました。

バンプレで演奏する、またの日がありますように!

関連リンク:Reunion 3days Liveレポート&バンプレ・ヒストリー/David T.公式サイトの記事

バンプレそしてDavid T.のこと」(拙記事)

Band Of Pleasureの旧譜が、iTunes Storeでリリースされています。(→iTune Store)

Who Is This Bitch Anyway?

2015/02/08 at 20:15

ChickenShack Live ’15 も先週終り、ようやく普段の生活の落ち着きが戻ってきたかと思いきや、思いがけない珍事がありました。

2/5は仕事は休みだったので、東京は雪が降っていましたが久々にヨメと外出の最中のことです。携帯に、泡喰った声で今からすぐ高松に来てくれと電話がありました。

へー、なんやそれは?

その日は、Marlena Show(vo)来日公演の初日@高松で、キーボードのLarry Nashが日にち勘違いして、L.A.からの飛行機に乗り遅れたそうです。今、成田に向かって太平洋上を飛行中、本番に間に合うかかなり怪しいから助けて!という話でした。

Marlena Shawを一気にスターダムに押し上げたアルバム名を冠に「“Who Is This Bitch Anyway?” リユニオン・ツアー」と銘打ち、そのレコーディングメンバーと共に来日することは知っていました。Who Is This Bitch Anyway?MarlenaとLarryの他、David T. Walker(g)Chuck Rainey(e-b)Harvey Mason(ds)の超大御所達です! Band Of Pleasureのメンバー仲間、David T.が私を推薦してくれたらしい。有難い話ですが、この手の音楽で、いきなりキーボードのトラ(代役)はムチャぶり!しかし、Davidの推薦の手前、行くしかないでしょ。出先からUターンで帰宅し、荷物をつめて飛行機に飛び乗りました。

会場に着いた時は、リハの真っ最中。折しもFeel Like Makin’ Love のイントロが始まったばかり。しかし、何小節かですぐにMarlenaがバンドを止め、「この曲はキーボードの音がないと入りの音程がとりづらいの。」と、少しナーバスになっている様子。ちょうどいいタイミング! 挨拶もそこそこに、バンドに加わりピアノを弾きはじめたら、こっちを向いてにこっと笑い、気分よく歌いはじめたので、ホッとしました。Street Walkin’ Woman やったときは「これ、これ、これや!」と思わず嬉しくなりました。 でも、曲によっては譜面と実際の演奏キーが違っていたり、全曲リハーサルが出来なかったりで、本番はどうなることやら?先行きはなかなか厳しいぞ、などと思っていたら、幸か不幸か(?)本番15分前、Larryが滑り込みセーフ!それで、私はめでたくお役御免。本番は客席に移り、寛いで彼らのショーを楽しませてもらいました。

Marlena Shawは70歳越えてるはずですが、素晴らしいエネルギーで、声も内容も圧倒的。すごい!Marlena打ち上げや、東京への飛行機も彼らとご一緒しました。Marlenaはステージを下りると、周りに明るく温かい気配りが行き届き、気さくでとてもチャーミングなレディーでした。いい人生を送ってる証拠!いっぺんに好きになりました。David T.旧友David T.とも久しぶりにゆっくり話ができて、お互いBand Of Pleasure リユニオンを誓い合いました。実現しますように!!! 彼は、前よりちょっぴりお爺さんになったかな?

<関連リンク>

・今回のMarlena Shawツアーはこの高松公演の後も素晴らしいものとなったそうです。その模様は、Davidの公式サイトに、サイト運営者ウエヤマさんによる臨場感溢れるレポートに仕上がって、掲載されています。<Marlena Shaw Live Tour 2015→

・拙ブログ記事。<バンプレそしてDavid T.のこと→

・David、そしてBand Of Pleasureにまつわるインタヴュー記事(David T.公式サイト掲載)。<Something for T. #16→

ChickenShack Live ’15 無事終了!

2015/02/08 at 10:55

15:01ChickenShack01

 

ChickenShack の公演は 1/29(木)Blue Note 東京と、1/31(土)ビルボード 大阪の2回、おかげさまで今回も盛況、中味の濃いLiveとなりました。お運びありがとうございました!

久しぶりにシンセ、キーボード三段重ねセッティングのライブでした。中古ですが”Roland Juno Stage”というシンセを新たに購入したこともあり、年明けから音色を作るところから準備はじまりました。ジャズのLiveのようにピアノ一台で演奏するのと違い、キーボードワークは同時に両手で違うシンセを使い、違うパートを弾くことも多いのです。どの楽器でどのパートを弾くかや、音色切替、それら手順等、譜面を見ながらだと、タイミングが遅きに失したり、ふとしたことから混乱して間違える恐れが多々あります。体で覚えないとついていかないので、結局全曲、アレンジと手順を含めて暗譜・記憶するはめになります。Liveが近くなって、暗譜と練習で頭から火を噴いていました。受験間近の猛勉強みたいです。その甲斐あって、過去2回より落ち着いて集中することができ、音楽的にとても充実した演奏となったと思います。バンド全体的にも、お客さんの反応にも濃い手応えがありました。でも、あっという間に終わってしまいました。 次回が待ち遠しい。 乞うご期待!

15:01ChickenShack02

さらば!ラスト・ソウルマン

2014/07/17 at 16:16

Bobby Womack "The Last Soul Man"ボビー・ウーマックが70歳で亡くなりました。

盟友、山岸潤史(g)が1988年にリリースしたアルバム、My Pleasureで、実はボビー・ウーマックと共演しているのです。たった2曲の共演なのですが、録音前に彼の家に山岸と行った時から始まり、レコーディングセッションの最中も、一生忘れられない、目が点になるような面白い思い出があります。その話はまたの機会に紹介したいと思いますが、ボビーこそ「最後のソウルマン」と呼ぶに相応しい伝説の男だったと思います。

心からご冥福をお祈りいたします。

展覧会の絵 番外・横尾忠則その1

2014/06/09 at 17:34

←展覧会の絵 その1

Tadanori Yokoo今回、横尾忠則の初期代表作に再会し、やはり同じMOT(東京都現代美術館)での、「森羅万象」と題された、横尾のこれまで最大規模の個展に足を運んだ、2002年夏の記憶が蘇りました。MOTは、その建物自体が一つの素晴らしい建築作品。ゆったりと規模が大きく、その中に異なる空間が様々用意され、その中を旅しながら作品を見ていくという楽しい作りです。その広大な館内に、常設展示室以外の全フロアー、全ての展示室をぶっ通しでの個展、横尾作品が400余点! 作品の数も圧倒的ですが、一点一点がとても強い。美術館にいた2時間程、何を見ても、強烈な横尾世界が目を通してぎりぎりと心に押し入ってくる感じでした。そのエネルギーの凄まじさに圧倒され、見終わって美術館を出た時は、くたびれ果てると共に、精神的にもへとへとの脱魂状態。そうそう、田村美沙さんとはこの展覧会もご一緒でした。彼女も見終わって腑抜けになってたっけ‥‥。

その時は横尾世界でお腹いっぱいになってしまっていたのですが、今回(驚くべきリアル展MOTコレクション)では色々な作家の中で横尾作品を見たこともあり、それらの比較から、横尾世界がいかに特異であるかが際立って見て取れました。横尾を一気にスターダムに押し上げた初期作品群中、18点の代表作です。(初期の横尾作品は、それら全てが代表作と言っても大げさではありません。)

西欧の伝統的な芸術様式には、「美」への意識が根底にあると思います。現実世界の「きれいなもの、美しいもの」を遥かに凌駕した理想的、絶対的なものとしての「美」です。そんな超越的な「美」を構築するために、宗教への接近、壮大化、重厚化、あるいは、理想への純化、形而上学的な昇華の方向性が伝統的な方法論となってきました。近代、現代における表現は、その古典的美の伝統に抗う歴史といっても過言ではないでしょう。現代の作家である横尾も、伝統からかけ離れ、印刷された媒体、そこにデザイン的又は、劇画的手法で、全てを思いきり矮小化してしまいます。モティーフはとてもフィジカル。暴力やエロティシズムも含む、肉体そのものや肉感、生理的感覚に結びついた題材です。しかし、それらをチープで平面化された空間にぺたっと押し込め、戯画的に矮小、軽薄化してしまう事によって、本来フィジカルであるはずものが、プラスティックになり、リアリティーを失うのと同時に抽象性、観念性、シンボル性を獲得してしまうという、逆説的な世界を現出させています。切断された小指に捧げるバラート 横尾作品が際立っているのは、伝統芸術に抗うというより、「ケツまくり」している点です。しかも徹底的に。 今回見たスペイン、そして日本の作家達も然りですが、近代、現代の作品には「否定対象としての美、伝統的方法論」を大なり小なり見てとることができます。外見的に、否定、破壊があるのですが、本質的に伝統を打破し得たわけではありません。対立軸としての伝統があるからこそ可能な否定、「派生した否定」でしかなく、伝統に対する意識性が透けて見えます。否定も肯定も同軸上のあっちとこっち、いわば同じ穴のムジナ。 一方、横尾の世界には、西欧伝統芸術やそれが希求する美への関連性、繋がりの痕跡が見事にかき消されています。しかし、横尾ほどの鋭い直感と感性が、それら美の集積と、その価値に無知であるはずがありません。(現代には伝統に無知な作家も、散見されますが。)その伝統の圧力に対し横尾の選択した答えは、正面切って抗おうとしないことだったと思います。その代わり、自分内部の西欧的な美意識を、自分の直感的感性とそのスピードで自ら出し抜き、「ケツをかく」という、とても奇妙な自己意識に対する裏切り行為をしているように見えます。自分自身のケツをかくわけですから、怖いものしらず。そこに横尾特有の「美って何なの?、芸術ってなんなの?」然とした、掟破りの不遜、不敵なアティテュードが突出します。そんなヤクザな作風は、伝統に対する横尾の内心を隠蔽する装いにもなっています。天井桟敷・定期会員募集 西欧的な伝統芸術は作品至上のところがあり、作家の死後も作品が孤高の唯一無二の存在として輝きを放ち続けることを希求します。そのような唯一無二な作品にオークションで巨額の値がついたりするのはご存じの通りです。しかし、これら横尾作品群はポスターという、あからさまな商業主義印刷媒体。いくらでも刷れて、そこかしこにべたべた。「ポスター作品」自体はロートレックが既にやったことですが、これは大変ナイーヴ。それに比べ横尾のはアナーキズム満々、伝統へのテロリズムのように見えます。ポスターとしての物理性に作品の本質があるわけではなく、そこに表現される世界自体(もしかすると、横尾自身の直感的感性そのもの)が作品の本体だとの強い主張を感じます。音楽における、印刷された楽譜⇔楽曲作品と関係が似ていますね。(音楽の場合、演奏というインター・メディアが存在しますが。)横尾の出自がグラフィック・デザイン畑だったため、意図的というより必然でもありますが、印刷媒体を前提として制作されるので、正規の印刷ならそれら全てがオリジナル。オークションなど屁でもない。 印刷された作品と言うなら、「責め場1・2・3」という連作は、版を重ねることで作品を構成していく印刷課程をそのまま露にすることで、逆に作品が解体される様、いわば解体ショーを表現の本体にしてしまっています。つまり、作品を構成する版を個別にプリントすると、そこには解体された作品のパーツが露になり、そのまま解体現場となるわけです。この捨て鉢な着想一つだけでも舌を巻いてしまいますが、同時に、背後にもうひとつ横尾の意図があるように感じられます。この作品の印刷技法は、シルクスクリーン。これは、スクリーンがマスクとなり、切り抜かれたところにインクが乗る技法。版の実体があるところは紙面の空白、版の切り抜かれた空白の部分に紙面のインクと、「版と紙面」両者の関係が正と負、実と虚という対極にありながらお互いがぴったり対になり、不可分の関係性が生じます。まさに、この作品自体が両者の接面に成立しています。この、作品の制作技法上に存在する対極関係。そして、前述したこの作品のテーマ、「露になった解体現場」、そこにある「構成と解体」の対極関係。さらに、作品自体のモティーフとなっている「SとM」。これら、コインの裏表、対極にあるもの同士が相互を補完し、ねじとねじ穴が出会うようにぴったり一体になる幸せな一点、その接合点が、この作品、「責め場」なのだと思います。何というメイクセンス!これこそが横尾の暗喩だと感じました。(下の写真はその連作中の「3」) 印刷媒体を作品とする手法は、マス・プロダクション、マス・メディア発祥の地、アメリカの作家達が盛んに用いました。(マス=massには、「大量の」とともに「大衆の」の意味もあります。)観念性を軽々蹴飛ばす、横尾の直感的感性のぶっ飛びの前では、ウォーホルもひよっ子に見えます。(個人的にはモンローもキャンベルスープもけっして嫌いではありませんが。)恐らく、横尾は観念自体も直感的に捉え、わしづかみに扱える能力があるような気がします。

横尾は多作の作家で、猛烈な勢いで作品を作り続けています。孤高作品至上の伝統的な作家意識とは対極、パーフォーミング・アートに近い意識を感じます。かのピカソにも、孤高作品と平行して、無推敲の簡便な作品群があり、恐らく意識して即興演奏するかのように描かれたものだと思います。殆どはナイーブなもの、中には筆がじゃれている程度のものも多く、それに比べると、横尾作品は、音楽の演奏の如く、流れるように制作されながらも、作品世界としての充溢度はコンポジション・アート並み。きっと、横尾に降り注ぐインスピレーションがとんでもないのでしょう。何かモーツアルトの多作のよう。

前出「驚くべきリアル展」でのスペイン作家達の暴力性や官能性、グロテスクさはとても扇情的で、それは直情として、あるいは生理的に感得されてしまうのですが、横尾作品の暴力、エロやグロは、ちっとも直情に訴えません。むしろ、大っぴらな作為性によって現実離れした距離感をつくり、そこに形而上学的趣さえ生み出してしまいます。責め場3 日本情緒や艶かしさ、淫靡さも漂うのですが、決して心にまで響くわけではなく、視覚の表層をくすぐる、上っ面だけのプラグマティックな風情なのです。しかし、そんな嘘くさく実のない画面なのに、見ていると作品との間合いに、生と死のはざまで生き物として蠢く、人間の「業」がふっと浮かび上がってきます。のみならず、そこはかとなく「もののあわれ」さえ感じるのは、私が日本人だからでしょうか?花嫁 前にも触れましたが、横尾の制作手法自体はありふれています。しかし、横尾の真骨頂は、そうやって作為された、うさん臭いあぶなさ、どぎつさ、きわどさ、悪趣味すれすれな極端の突先で、針の穴を通すようなメイクセンスをやってのける痛快さにあります。実にスリリング!こんなリスキービジネスは、軽業師のような表現上の非凡な運動、平衡感覚、そしてラディカルを手玉に取る、極めて鋭い直感の横尾にのみ許される芸当。

この奇抜で前人未到の、そして、インモラルでスキャンダラスな企て全てを、こともなげに、無造作、無配慮、全く無遠慮に、ちゃっちゃとやってしまうかに見せる、傍若無人な外見。それは、正々堂々の道場破りでなく、「切り捨てご免」の辻斬りのよう。どこまでいっても箸にも棒にもかかりません。
横尾の中には、文字通り「奇想天外」が溢れています。

実は1970年代初頭に、とある奇遇でその横尾本人と会った事があるのです。

<番外・横尾忠則その2に続く>

展覧会の絵 その1

2014/05/20 at 01:42

展覧会の絵01「展覧会の絵」二題。その1は現実の展覧会に行って来たトピック。その2はロシアの作曲家、ムソルグスキーによるかの有名な作品。そして、番外「横尾忠則」

まずは、展覧会の絵 その1。

東京都現代美術館(MOT開催の「驚くべきリアル展」に行って来ました。私の職業は耳の世界に特化した仕事ですが、一方、目の世界の表現にも大変関心があって、美術館によく出かけます。今回の展覧会はスペイン及び、スペイン語圏作家の、現代リアリズム潮流にスポットを当て、それらの作品を紹介する趣向でした。 中には面白い作品も多少ありましたが、全体的には新しい発見には乏しい内容でした。しかし、見ていくうちに、「スペイン的なもの」が垣間見えてきて、それが一番の収穫でした。 近代、現代の表現には、どこかに伝統を破壊、ないしは、突き抜いていこうとするモメンタムが強いように思います。それは、誰もやった事のない何か、未だかつてなかった新しい何かを創造、創出したいという欲望に突き動かされる芸術家にとって、目の前に立ちはだかる、伝統の圧倒的重圧に、もはやそれを破壊して突破するしか自分の道はないと強迫観念を抱くからかも知れません。このスペイン語圏の作家達にもその破壊モメンタムが多分にありますが、あまりにもナイーヴ過ぎて新味がないのが玉に瑕。反面、その分、衝動としての破壊が、露骨な程ストレートに噴出していました。多くの作品に、それぞれ形は違うものの、扇情的で、暴力と血の匂いがして、どこかグロテスクなものがありました。同じく、スペイン近代の巨匠、ダリやガウディーの作品にもこの扇情性、あるいは官能的でグロテスクなものが、私には感じ取れます。もしかすると、これはスペインの血に色濃く流れる「スペイン的なもの」ではないかと‥‥‥‥。思えば、「闘牛の熱狂」にも通じ、納得がいった次第です。

展覧会の絵02この展覧会でいいなと思ったのは、個人的使用なら写真撮影が許されていた事。これは今まで初めて。早速、ご一緒したJazz Vocalist 、田村美沙さんをパチリ。美沙さん自身も音楽活動の傍ら、絵を精力的に描いていることもあり、一緒に美術館を巡る仲間なのです。

展覧会の絵03

展覧会の絵04時間があったので、この美術館の常設展「MOTコレクション」へ。この美術館の収蔵する4500余点の作品は日本の現代作家の作品が中心、時期ごとにテーマを設定、収蔵作品の中からテーマに沿った作品をチョイスして展示する趣向。何度も来ているので、以前見たことのある作品も。先程のスペイン語圏作家のものより、こっちの方が表現として手が込んで緻密な作品が多く見応えがあったので、内心、同じ日本人として少し誇らしい気持ちになりました。

中でも、横尾忠則の初期の作品は他の追随を許さない特異な世界観があり、ひときわ圧巻でした。

展覧会の絵 番外・横尾忠則その1→

ア・エスピリトロンパ/三鷹台 スペイン料理

2014/04/04 at 15:24

A Espiritrompa桜の季節、お花見散歩をするのですが、今年は井の頭線三鷹台玉川上水~井の頭公園のコース。腹ごしらえのランチに寄ったのが、「ア・エスピリトロンパ」。日本でスペインの郷土料理というと、バスク料理が幅を利かせていますが、ここはガリシア地方の料理。ガリシアは大西洋に突き出た、スペインの西北端に位置します。海の幸は勿論、山の幸にも恵まれた豊かな風土だそうです。私はそれぞれの地方で愛される郷土料理が好き。人々の暮しを支える、滋味豊かで五臓六腑に染みわたる料理だからです。このお店の料理もスペイン料理らしく、オリーブ油、ガーリック、ハーブ類が口の中で弾けるのですが、今まで食べたどのスペイン料理よりも、バランスのよい落ち着き。野趣がありながら、きちんとレストラン料理として磨かれていました。ハウスのグラスワインもガリシア地ワイン。白は、ドライなのに、しっかり複雑な味と香り、いくらでも飲めそう。自家製パンは石釜で焼かれ、素朴ながら噛みしめるほどに味わいが広がります。モダン・シンプルなダイニングはいごごちよく、休日の午後、幸せなひとときでした。スペイン料理好きは、わざわざ足を運ぶ価値あり。

レコーディング w/西村知恵(vo)

2014/03/15 at 21:18

久々にジャズ・ヴォーカリストのレコーディングに参加しました。歌姫は西村知恵。西村さんは東京でほとんど活動していないこともあり、知る人ぞ知るですが、自然に心を込めて歌える底力のある歌手です。スタイルはエラばりのジャズ・ヴォーカル王道。伸びやかで艶のある声は大器を予感させます。何より、鹿児島の女性らしく、真っ直ぐで熱い人柄そのまま、存在感が歌ににじみ出ているのが素晴らしいです。

14:03レコーディングw:西村知恵(vo)

彼女を支えるのは、高瀬龍一(tp)大山日出男(as)高瀬裕(b)小山太郎(ds)の面々。メンバーそれぞれの個性が随所に光り、同時に、高瀬くん独特の浮遊感漂うアレンジが全体を貫き、一筋縄ではいかない、とてもユニークな作品となりました。

西村知恵(vo)のCD、 “My Ideal” は、4月26日にリリースされます。乞うご期待!

アバド逝く

2014/01/22 at 13:35

アバド逝く指揮者クラウディオ・アバドが80年の生涯を閉じました。アバドは私が大きな影響を受けた音楽家の一人です。彼の音楽を聴くと、常に、音楽の持つ二面性、つまり主観面と客観面について考えさせられます。彼にはこの両面において特別に優れた洞察力があり、音楽それ自体に、自然に表現させることをとりわけ大切にした人だと思います。どんな曲も、スコアの隅々まで精緻で明晰。しかし、「情念」については大変慎重で、それが突出しないよう細心の注意を払っているように思われます。つまり、主観が突出することで客観性が損なわれる事を回避し、その代り、瑞々しい音楽的感興が立ち上がることをことのほか大切にしたように思います。(「情念」に慎重だったことは、彼への評価を二分する原因の一つだと思います。)

客観面において、彼のロンドン・シンフォニーとのラヴェルの録音はとりわけ勉強になりました。モーリス・ラヴェルの音楽は、詩的、内的な側面を大切にしたドビュッシーとは対比的に、むしろ、音楽の客観的、外的側面を重視し、もの凄くスタイリッシュな美学に抜かれています。(構造の作りは印象派というより、古典的でさえあります。)ラヴェルの美意識に対するアバドのずば抜けた洞察力が光り、見事にラヴェル世界を瑞々しく立ち上げています。個人的には、アバド以上にラヴェルと相性のいい指揮者はおらず、恐らく、アバドの演奏を天国のラヴェル本人が聴いて、舌を巻いてるんじゃないかと思う程です。

例えば、ラヴェル後期の作品「ラ・ヴァルス」の録音。この曲の内包する「狂気」、「危なさ」を見通し、それをアバド以上に緻密に表現し切った演奏に出会った事がありません。しかも、表面上は優雅でスタイリッシュ。この曲は冒頭から不穏な空気があるのですが、曲が進むにつれ、危なさがたちこめ、だんだん音楽の端々がねじが緩むように狂い始めます。やがて収拾がつかなくなり、狂おしく熱をおび、最後は狂気の沙汰。その頂点であっという間に曲が終わります。聴き手は「ええっ?」と唖然とさせられます。アバド表現の素晴らしいところは、その狂っていく様が「官能的」であること。彼の血がイタリア人であることと、官能的であることとは無縁ではないと思います。

「官能的」という事に関しても、私はアバドの演奏から大きな影響を受けました。私は、この世界で最も官能的な音楽を書いた作曲家は、アルバン・ベルクだと思っています。死への意識と隣り合わせのような音楽で、前出の「ラ・ヴァルス」よりもっと危ない感覚を呼び起こされますが、同時にこの上なく美しく、ベルクの凄まじい美意識に抜かれています。特に最晩年の作品には死への指向が濃く、「ルル」は「冥府への沈降」、ヴァイオリン協奏曲は「天上への昇華」と、とても対照的。アバドは、ベルクのオーケストラ作品集を若い頃ロンドン・シンフォニーと、歳をとってからウィーン・フィルと録音しており、同じ曲が多数重なっているので、聴き比べると大変興味深いです。若い方はベルクの難解で超複雑なスコアを、透かし彫りを見るように精緻明晰な演奏。歳をとってからの方は、心の奥深く、ほの暗い心理の襞に分け入っていくような、怖い感覚があって、ぞっとするような官能の美があります。 私はチキンシャック時代の最後期、ベルクの音楽に惹かれ、夢中で、朝から晩まで様々な演奏家によるベルク作品を聴きあさっていた時期がありました。一番心に迫り、何度も繰り返し聴いたのは、アバドのウィーン・フィルとの録音でした。前出のヴァイオリン協奏曲は、アバドのはLive録音しかなく、この出来がもひとつなのが残念です。(ムターとウィーン・フィルとの演奏を遺して欲しかった。)

話は変わりますが、ジャズの世界で官能的であることを意識しているミュージシャンはあまり多くないように思います。ウエィン・ショーターとハービー・ハンコックは数少ないその二人。例えば「ネフェルティティ」という曲を聴くと、とても官能的なものを感じます。個人的には、この二人はベルクの音楽を聴き込んだ時期があったに違いない?と勝手に想像しています。実は、私がショーターのこの時代の曲を好んで演奏するのは、私なりの「官能性」へのチャレンジでもあるのです。

私は、1800年代の終りから1900年代初め、いわゆる「近代」に惹かれるところがあり、もしタイムマシンがあったら行ってみたいのが、ベルクのいたウィーンとラヴェルのいたパリ。方や、バッハ時代からの古典的な伝統が最後の絢爛なあだ花を咲かせるウィーン。方や、全ての制約から自由を得、軽やかに未知の領域に飛翔するパリ。ロゴスと客観、形式を重んじ、理想を希求する古典的世界観の有終の美と、感覚と主観、心象を重んじ、自由を希求する近代の幕開けがこの二つの都市に集約、象徴されています。私が惹かれるのは、このどちらにもホントにぶっ飛んだところがあるからです。この時代のパリとウィーンにはとんでもないものが溢れていて、まさに晴天の霹靂オンパレード。その事に目を開かせてくれた上、それらの感覚、気風、香りに私を誘ってくれた一人が、アバドでした。

アバドの演奏や人柄は、自分をこれ見よがしに前面に出さないこともあり、一見「ユニーク」だとか、「個性的」の部類に入るようには見えません。しかし、同時に今まで存在する指揮者のどんなカテゴリーに分類することも難しく、一般には賛否、好き嫌いが、分かれるようです。 私にの目には、ワンアンドオンリー、稀代の知性、感性の持ち主に思えます。アバドの演奏を聴いて、驚きとともに「音楽って、こんなことも表現できるんだ。」と、気付かされることの多かったこと!

人間は常に未熟です。そして無知のなかで生きています。私は自分で可能な限り、音楽や文化、そして人間という存在について考えてきたという自負があります。ーーークラウディオ・アバド
 
一度もお会いしたことがないのですが、アバドさんには感謝の気持ちいっぱい。ご冥福をお祈りします。

フアン・ペン/チェンマイ

2014/01/15 at 18:39

huen phen1二泊三日のチェンマイ滞在中に、夜とお昼、2度も食べに行ったのが「フアン・ペン」。北部タイ料理のお店で、バンコクのココナツミルクを使った濃厚な味付けとは違い、シャープですっきりした印象です。山の幸が中心ですが、野菜もたっぷり。チェンマイで食べたベストのお店で、個人的にはすごく口に合いました。お昼は地元の人達もおしかける「美味しい地元食堂」。建物の通りに面したところでいただきます。夜は建物の右端、門のある入口から石畳を進むと、奥まったところに、夜のみ使われるレストランが現われます。内装も民族色豊かでムーディー。メニュー内容も宮廷料理等、「ハレ」の料理に変わります。けれど、そんなに高くはなく、コスト・パーフォーマンス抜群。お昼と夜で顔の変わるお店で、面白い! そしてどちらもホントに美味。
huen phen6

Huen Phen / フアンペン/ร้านอาหารเฮือนเพ็ญ
112 Ratchamankha Road
(昼)AM 8:30〜15:00 Tel : 053-814-548
(夜)PM 17:00〜22:00 Tel : 053-277-103