展覧会の絵 番外・横尾忠則その1

2014/06/09 at 17:34

←展覧会の絵 その1

Tadanori Yokoo今回、横尾忠則の初期代表作に再会し、やはり同じMOT(東京都現代美術館)での、「森羅万象」と題された、横尾のこれまで最大規模の個展に足を運んだ、2002年夏の記憶が蘇りました。MOTは、その建物自体が一つの素晴らしい建築作品。ゆったりと規模が大きく、その中に異なる空間が様々用意され、その中を旅しながら作品を見ていくという楽しい作りです。その広大な館内に、常設展示室以外の全フロアー、全ての展示室をぶっ通しでの個展、横尾作品が400余点! 作品の数も圧倒的ですが、一点一点がとても強い。美術館にいた2時間程、何を見ても、強烈な横尾世界が目を通してぎりぎりと心に押し入ってくる感じでした。そのエネルギーの凄まじさに圧倒され、見終わって美術館を出た時は、くたびれ果てると共に、精神的にもへとへとの脱魂状態。そうそう、田村美沙さんとはこの展覧会もご一緒でした。彼女も見終わって腑抜けになってたっけ‥‥。

その時は横尾世界でお腹いっぱいになってしまっていたのですが、今回(驚くべきリアル展MOTコレクション)では色々な作家の中で横尾作品を見たこともあり、それらの比較から、横尾世界がいかに特異であるかが際立って見て取れました。横尾を一気にスターダムに押し上げた初期作品群中、18点の代表作です。(初期の横尾作品は、それら全てが代表作と言っても大げさではありません。)

西欧の伝統的な芸術様式には、「美」への意識が根底にあると思います。現実世界の「きれいなもの、美しいもの」を遥かに凌駕した理想的、絶対的なものとしての「美」です。そんな超越的な「美」を構築するために、宗教への接近、壮大化、重厚化、あるいは、理想への純化、形而上学的な昇華の方向性が伝統的な方法論となってきました。近代、現代における表現は、その古典的美の伝統に抗う歴史といっても過言ではないでしょう。現代の作家である横尾も、伝統からかけ離れ、印刷された媒体、そこにデザイン的又は、劇画的手法で、全てを思いきり矮小化してしまいます。モティーフはとてもフィジカル。暴力やエロティシズムも含む、肉体そのものや肉感、生理的感覚に結びついた題材です。しかし、それらをチープで平面化された空間にぺたっと押し込め、戯画的に矮小、軽薄化してしまう事によって、本来フィジカルであるはずものが、プラスティックになり、リアリティーを失うのと同時に抽象性、観念性、シンボル性を獲得してしまうという、逆説的な世界を現出させています。切断された小指に捧げるバラート 横尾作品が際立っているのは、伝統芸術に抗うというより、「ケツまくり」している点です。しかも徹底的に。 今回見たスペイン、そして日本の作家達も然りですが、近代、現代の作品には「否定対象としての美、伝統的方法論」を大なり小なり見てとることができます。外見的に、否定、破壊があるのですが、本質的に伝統を打破し得たわけではありません。対立軸としての伝統があるからこそ可能な否定、「派生した否定」でしかなく、伝統に対する意識性が透けて見えます。否定も肯定も同軸上のあっちとこっち、いわば同じ穴のムジナ。 一方、横尾の世界には、西欧伝統芸術やそれが希求する美への関連性、繋がりの痕跡が見事にかき消されています。しかし、横尾ほどの鋭い直感と感性が、それら美の集積と、その価値に無知であるはずがありません。(現代には伝統に無知な作家も、散見されますが。)その伝統の圧力に対し横尾の選択した答えは、正面切って抗おうとしないことだったと思います。その代わり、自分内部の西欧的な美意識を、自分の直感的感性とそのスピードで自ら出し抜き、「ケツをかく」という、とても奇妙な自己意識に対する裏切り行為をしているように見えます。自分自身のケツをかくわけですから、怖いものしらず。そこに横尾特有の「美って何なの?、芸術ってなんなの?」然とした、掟破りの不遜、不敵なアティテュードが突出します。そんなヤクザな作風は、伝統に対する横尾の内心を隠蔽する装いにもなっています。天井桟敷・定期会員募集 西欧的な伝統芸術は作品至上のところがあり、作家の死後も作品が孤高の唯一無二の存在として輝きを放ち続けることを希求します。そのような唯一無二な作品にオークションで巨額の値がついたりするのはご存じの通りです。しかし、これら横尾作品群はポスターという、あからさまな商業主義印刷媒体。いくらでも刷れて、そこかしこにべたべた。「ポスター作品」自体はロートレックが既にやったことですが、これは大変ナイーヴ。それに比べ横尾のはアナーキズム満々、伝統へのテロリズムのように見えます。ポスターとしての物理性に作品の本質があるわけではなく、そこに表現される世界自体(もしかすると、横尾自身の直感的感性そのもの)が作品の本体だとの強い主張を感じます。音楽における、印刷された楽譜⇔楽曲作品と関係が似ていますね。(音楽の場合、演奏というインター・メディアが存在しますが。)横尾の出自がグラフィック・デザイン畑だったため、意図的というより必然でもありますが、印刷媒体を前提として制作されるので、正規の印刷ならそれら全てがオリジナル。オークションなど屁でもない。 印刷された作品と言うなら、「責め場1・2・3」という連作は、版を重ねることで作品を構成していく印刷課程をそのまま露にすることで、逆に作品が解体される様、いわば解体ショーを表現の本体にしてしまっています。つまり、作品を構成する版を個別にプリントすると、そこには解体された作品のパーツが露になり、そのまま解体現場となるわけです。この捨て鉢な着想一つだけでも舌を巻いてしまいますが、同時に、背後にもうひとつ横尾の意図があるように感じられます。この作品の印刷技法は、シルクスクリーン。これは、スクリーンがマスクとなり、切り抜かれたところにインクが乗る技法。版の実体があるところは紙面の空白、版の切り抜かれた空白の部分に紙面のインクと、「版と紙面」両者の関係が正と負、実と虚という対極にありながらお互いがぴったり対になり、不可分の関係性が生じます。まさに、この作品自体が両者の接面に成立しています。この、作品の制作技法上に存在する対極関係。そして、前述したこの作品のテーマ、「露になった解体現場」、そこにある「構成と解体」の対極関係。さらに、作品自体のモティーフとなっている「SとM」。これら、コインの裏表、対極にあるもの同士が相互を補完し、ねじとねじ穴が出会うようにぴったり一体になる幸せな一点、その接合点が、この作品、「責め場」なのだと思います。何というメイクセンス!これこそが横尾の暗喩だと感じました。(下の写真はその連作中の「3」) 印刷媒体を作品とする手法は、マス・プロダクション、マス・メディア発祥の地、アメリカの作家達が盛んに用いました。(マス=massには、「大量の」とともに「大衆の」の意味もあります。)観念性を軽々蹴飛ばす、横尾の直感的感性のぶっ飛びの前では、ウォーホルもひよっ子に見えます。(個人的にはモンローもキャンベルスープもけっして嫌いではありませんが。)恐らく、横尾は観念自体も直感的に捉え、わしづかみに扱える能力があるような気がします。

横尾は多作の作家で、猛烈な勢いで作品を作り続けています。孤高作品至上の伝統的な作家意識とは対極、パーフォーミング・アートに近い意識を感じます。かのピカソにも、孤高作品と平行して、無推敲の簡便な作品群があり、恐らく意識して即興演奏するかのように描かれたものだと思います。殆どはナイーブなもの、中には筆がじゃれている程度のものも多く、それに比べると、横尾作品は、音楽の演奏の如く、流れるように制作されながらも、作品世界としての充溢度はコンポジション・アート並み。きっと、横尾に降り注ぐインスピレーションがとんでもないのでしょう。何かモーツアルトの多作のよう。

前出「驚くべきリアル展」でのスペイン作家達の暴力性や官能性、グロテスクさはとても扇情的で、それは直情として、あるいは生理的に感得されてしまうのですが、横尾作品の暴力、エロやグロは、ちっとも直情に訴えません。むしろ、大っぴらな作為性によって現実離れした距離感をつくり、そこに形而上学的趣さえ生み出してしまいます。責め場3 日本情緒や艶かしさ、淫靡さも漂うのですが、決して心にまで響くわけではなく、視覚の表層をくすぐる、上っ面だけのプラグマティックな風情なのです。しかし、そんな嘘くさく実のない画面なのに、見ていると作品との間合いに、生と死のはざまで生き物として蠢く、人間の「業」がふっと浮かび上がってきます。のみならず、そこはかとなく「もののあわれ」さえ感じるのは、私が日本人だからでしょうか?花嫁 前にも触れましたが、横尾の制作手法自体はありふれています。しかし、横尾の真骨頂は、そうやって作為された、うさん臭いあぶなさ、どぎつさ、きわどさ、悪趣味すれすれな極端の突先で、針の穴を通すようなメイクセンスをやってのける痛快さにあります。実にスリリング!こんなリスキービジネスは、軽業師のような表現上の非凡な運動、平衡感覚、そしてラディカルを手玉に取る、極めて鋭い直感の横尾にのみ許される芸当。

この奇抜で前人未到の、そして、インモラルでスキャンダラスな企て全てを、こともなげに、無造作、無配慮、全く無遠慮に、ちゃっちゃとやってしまうかに見せる、傍若無人な外見。それは、正々堂々の道場破りでなく、「切り捨てご免」の辻斬りのよう。どこまでいっても箸にも棒にもかかりません。
横尾の中には、文字通り「奇想天外」が溢れています。

実は1970年代初頭に、とある奇遇でその横尾本人と会った事があるのです。

<番外・横尾忠則その2に続く>

展覧会の絵 その1

2014/05/20 at 01:42

展覧会の絵01「展覧会の絵」二題。その1は現実の展覧会に行って来たトピック。その2はロシアの作曲家、ムソルグスキーによるかの有名な作品。そして、番外「横尾忠則」

まずは、展覧会の絵 その1。

東京都現代美術館(MOT開催の「驚くべきリアル展」に行って来ました。私の職業は耳の世界に特化した仕事ですが、一方、目の世界の表現にも大変関心があって、美術館によく出かけます。今回の展覧会はスペイン及び、スペイン語圏作家の、現代リアリズム潮流にスポットを当て、それらの作品を紹介する趣向でした。 中には面白い作品も多少ありましたが、全体的には新しい発見には乏しい内容でした。しかし、見ていくうちに、「スペイン的なもの」が垣間見えてきて、それが一番の収穫でした。 近代、現代の表現には、どこかに伝統を破壊、ないしは、突き抜いていこうとするモメンタムが強いように思います。それは、誰もやった事のない何か、未だかつてなかった新しい何かを創造、創出したいという欲望に突き動かされる芸術家にとって、目の前に立ちはだかる、伝統の圧倒的重圧に、もはやそれを破壊して突破するしか自分の道はないと強迫観念を抱くからかも知れません。このスペイン語圏の作家達にもその破壊モメンタムが多分にありますが、あまりにもナイーヴ過ぎて新味がないのが玉に瑕。反面、その分、衝動としての破壊が、露骨な程ストレートに噴出していました。多くの作品に、それぞれ形は違うものの、扇情的で、暴力と血の匂いがして、どこかグロテスクなものがありました。同じく、スペイン近代の巨匠、ダリやガウディーの作品にもこの扇情性、あるいは官能的でグロテスクなものが、私には感じ取れます。もしかすると、これはスペインの血に色濃く流れる「スペイン的なもの」ではないかと‥‥‥‥。思えば、「闘牛の熱狂」にも通じ、納得がいった次第です。

展覧会の絵02この展覧会でいいなと思ったのは、個人的使用なら写真撮影が許されていた事。これは今まで初めて。早速、ご一緒したJazz Vocalist 、田村美沙さんをパチリ。美沙さん自身も音楽活動の傍ら、絵を精力的に描いていることもあり、一緒に美術館を巡る仲間なのです。

展覧会の絵03

展覧会の絵04時間があったので、この美術館の常設展「MOTコレクション」へ。この美術館の収蔵する4500余点の作品は日本の現代作家の作品が中心、時期ごとにテーマを設定、収蔵作品の中からテーマに沿った作品をチョイスして展示する趣向。何度も来ているので、以前見たことのある作品も。先程のスペイン語圏作家のものより、こっちの方が表現として手が込んで緻密な作品が多く見応えがあったので、内心、同じ日本人として少し誇らしい気持ちになりました。

中でも、横尾忠則の初期の作品は他の追随を許さない特異な世界観があり、ひときわ圧巻でした。

展覧会の絵 番外・横尾忠則その1→

アバド逝く

2014/01/22 at 13:35

アバド逝く指揮者クラウディオ・アバドが80年の生涯を閉じました。アバドは私が大きな影響を受けた音楽家の一人です。彼の音楽を聴くと、常に、音楽の持つ二面性、つまり主観面と客観面について考えさせられます。彼にはこの両面において特別に優れた洞察力があり、音楽それ自体に、自然に表現させることをとりわけ大切にした人だと思います。どんな曲も、スコアの隅々まで精緻で明晰。しかし、「情念」については大変慎重で、それが突出しないよう細心の注意を払っているように思われます。つまり、主観が突出することで客観性が損なわれる事を回避し、その代り、瑞々しい音楽的感興が立ち上がることをことのほか大切にしたように思います。(「情念」に慎重だったことは、彼への評価を二分する原因の一つだと思います。)

客観面において、彼のロンドン・シンフォニーとのラヴェルの録音はとりわけ勉強になりました。モーリス・ラヴェルの音楽は、詩的、内的な側面を大切にしたドビュッシーとは対比的に、むしろ、音楽の客観的、外的側面を重視し、もの凄くスタイリッシュな美学に抜かれています。(構造の作りは印象派というより、古典的でさえあります。)ラヴェルの美意識に対するアバドのずば抜けた洞察力が光り、見事にラヴェル世界を瑞々しく立ち上げています。個人的には、アバド以上にラヴェルと相性のいい指揮者はおらず、恐らく、アバドの演奏を天国のラヴェル本人が聴いて、舌を巻いてるんじゃないかと思う程です。

例えば、ラヴェル後期の作品「ラ・ヴァルス」の録音。この曲の内包する「狂気」、「危なさ」を見通し、それをアバド以上に緻密に表現し切った演奏に出会った事がありません。しかも、表面上は優雅でスタイリッシュ。この曲は冒頭から不穏な空気があるのですが、曲が進むにつれ、危なさがたちこめ、だんだん音楽の端々がねじが緩むように狂い始めます。やがて収拾がつかなくなり、狂おしく熱をおび、最後は狂気の沙汰。その頂点であっという間に曲が終わります。聴き手は「ええっ?」と唖然とさせられます。アバド表現の素晴らしいところは、その狂っていく様が「官能的」であること。彼の血がイタリア人であることと、官能的であることとは無縁ではないと思います。

「官能的」という事に関しても、私はアバドの演奏から大きな影響を受けました。私は、この世界で最も官能的な音楽を書いた作曲家は、アルバン・ベルクだと思っています。死への意識と隣り合わせのような音楽で、前出の「ラ・ヴァルス」よりもっと危ない感覚を呼び起こされますが、同時にこの上なく美しく、ベルクの凄まじい美意識に抜かれています。特に最晩年の作品には死への指向が濃く、「ルル」は「冥府への沈降」、ヴァイオリン協奏曲は「天上への昇華」と、とても対照的。アバドは、ベルクのオーケストラ作品集を若い頃ロンドン・シンフォニーと、歳をとってからウィーン・フィルと録音しており、同じ曲が多数重なっているので、聴き比べると大変興味深いです。若い方はベルクの難解で超複雑なスコアを、透かし彫りを見るように精緻明晰な演奏。歳をとってからの方は、心の奥深く、ほの暗い心理の襞に分け入っていくような、怖い感覚があって、ぞっとするような官能の美があります。 私はチキンシャック時代の最後期、ベルクの音楽に惹かれ、夢中で、朝から晩まで様々な演奏家によるベルク作品を聴きあさっていた時期がありました。一番心に迫り、何度も繰り返し聴いたのは、アバドのウィーン・フィルとの録音でした。前出のヴァイオリン協奏曲は、アバドのはLive録音しかなく、この出来がもひとつなのが残念です。(ムターとウィーン・フィルとの演奏を遺して欲しかった。)

話は変わりますが、ジャズの世界で官能的であることを意識しているミュージシャンはあまり多くないように思います。ウエィン・ショーターとハービー・ハンコックは数少ないその二人。例えば「ネフェルティティ」という曲を聴くと、とても官能的なものを感じます。個人的には、この二人はベルクの音楽を聴き込んだ時期があったに違いない?と勝手に想像しています。実は、私がショーターのこの時代の曲を好んで演奏するのは、私なりの「官能性」へのチャレンジでもあるのです。

私は、1800年代の終りから1900年代初め、いわゆる「近代」に惹かれるところがあり、もしタイムマシンがあったら行ってみたいのが、ベルクのいたウィーンとラヴェルのいたパリ。方や、バッハ時代からの古典的な伝統が最後の絢爛なあだ花を咲かせるウィーン。方や、全ての制約から自由を得、軽やかに未知の領域に飛翔するパリ。ロゴスと客観、形式を重んじ、理想を希求する古典的世界観の有終の美と、感覚と主観、心象を重んじ、自由を希求する近代の幕開けがこの二つの都市に集約、象徴されています。私が惹かれるのは、このどちらにもホントにぶっ飛んだところがあるからです。この時代のパリとウィーンにはとんでもないものが溢れていて、まさに晴天の霹靂オンパレード。その事に目を開かせてくれた上、それらの感覚、気風、香りに私を誘ってくれた一人が、アバドでした。

アバドの演奏や人柄は、自分をこれ見よがしに前面に出さないこともあり、一見「ユニーク」だとか、「個性的」の部類に入るようには見えません。しかし、同時に今まで存在する指揮者のどんなカテゴリーに分類することも難しく、一般には賛否、好き嫌いが、分かれるようです。 私にの目には、ワンアンドオンリー、稀代の知性、感性の持ち主に思えます。アバドの演奏を聴いて、驚きとともに「音楽って、こんなことも表現できるんだ。」と、気付かされることの多かったこと!

人間は常に未熟です。そして無知のなかで生きています。私は自分で可能な限り、音楽や文化、そして人間という存在について考えてきたという自負があります。ーーークラウディオ・アバド
 
一度もお会いしたことがないのですが、アバドさんには感謝の気持ちいっぱい。ご冥福をお祈りします。

カレーの海で泳ぎたい

2013/09/06 at 14:21

9784895112369_1私の実弟、続木義也が本を書きました。

続木四兄弟、一番下の弟は、京都下鴨でカフェ・ヴェルディという自家焙煎珈琲店を営んでいます。飲食業のプロというだけでなく、自身もかなりの食いしん坊で、彼の京都食べ歩きのブログコラム「店主の気まぐれ日記」は、大変人気があり、グルメ雑誌編集者やライター、その他プロ達ももこっそり読んでるそうです。私も時々読みますが、食べ物大好きな彼個人の趣味とともに、職業人ならではの視点と意見がバランスよく配され、とても参考になります。

そんな彼のコラムに、数年前からカレーにまつわる記事が増えはじめました。実家に帰ると、「兄貴、カレー喰いにいこう。」と誘ってくれるようになりました。一緒に食べながら話を聴くと、インドやタイのスパイス料理の魅力にどっぷりのようです。もともと彼にはマニアックな一点追求型の性格があり、それが幸いし、珈琲をとことん極めて今の彼の店、カフェ・ヴェルディがあるわけです。 その彼が、今度はカレーにハマっているので、もしや将来インド料理屋さん?と恐る恐る訪ねたら、餅屋は餅屋だから、自分はやる気はないとのことで、ちょっとホッとしました。 しかし、彼のマニアぶりはコラム等を通じてよく知られる所となり、ある編集者からカレーの本出しませんかと話があったそうです。悩んだ末引き受け、ついに「カレーの海で泳ぎたい」出版の日の目を見た次第です。身内の贔屓目を差し引いても、なかなか良く書けていると思います。内容も面白く、読み始めたら一気に読んでしまいました。何よりも、読んでると、”ああカレーが食べたい!”

特に、カレー好きの方はぜひご一読を。なかなかスパイシーな一冊ですよ。(Amazon→)

雪の中、白隠に会う

2013/02/07 at 11:51

hakuin01  白隠展@東急Bunkamura を見てきました。天候が悪かったので入場者が少なく、ゆっくり観れたのは何よりでした。 私事で恐縮ですが、10代に読んだ「臨済録」が蘇ってきました。分別を切り裂く一刀両断の気合い、心そのものを吹き飛ばす明晰、一期一会にほとばしる悟境の一閃。スリリングな臨済禅の一端に強烈な衝撃を受け、その後の私の人生に多大な影響を与えた一冊です。同じ強烈さが白隠の書画に溢れていました。まるで公案ように、こちらに投げつけてくる気迫は、白隠その人が「言えっ!」と迫り来るようで、観ている私もなかなか大変でした。荒唐無稽な考えですが、白隠の絵を何枚か家に掲げて、朝に夕にじっと対峙したいと思いました。そうしていると、ある時、本当にぎりぎりの肝要がわかりそうな、そんな絵達でした。

白隠の書画には存在の根底を揺さぶる力があり、表現としても作品としても並外れていることは一目瞭然ですが、画家、書家などによる「芸術作品」とは全く異質、一瞬に表現を突き抜け、目の前に白隠がこちらをじっと見つめています。正に彼はとんでもない人物でした。 白隠と一期一会。

いつか、白隠のようにピアノを弾くことができたら‥‥‥。

山岸潤史そしてニューオリンズな夜

2012/09/19 at 01:11

チキンシャックの盟友の一人、ギタリストの山岸はニューオリンズ在住、地元誌に年間ベストギタリストに選出される等、現地に根ざしてしっかり活躍しています。彼がジョー・サンプル(クルセーダーズで名を馳せたピアニスト)のクレオール・ジョー・バンドの一員として来日、先日ブルーノートのショーに行って来ました。 ザイデコをベースにニューオリンズご当地音楽を詰め込んだバンドでした。ジョーは優れたジャズピアニストですが、半分以上アコーディオンを弾いてました。キーボード(デジタル・ピアノ)を弾く時より、何か楽しそう。ジョーの母親はニューオリンズの人だったので、子供時代に聴いたのは様々なニューオリンズの音楽だったそうです。この歳になった今、自分のルーツの音楽を演りたいという気概が伝わってきました。でも、すごくモダンな音楽性の持ち主なので、彼のバンドはニューオリンズで聴いたザイデコより洗練されスマートかな? そうだとしてもバンドの「楽勝のゆるゆる」感はニューオリンズのクラブギグそのまま。実は山岸がニューオリンズに移るもっと前、4~5年に渡って私自身、あの町に通い詰めた時期がありました。彼らのステージの空気から、当時の色んな情景が記憶に呼び覚され、懐かしくなりました。あの感じは好きやな~~!

山岸ですが、全く違和感なくとけ込んでいるだけでなく、ともすればイージーに流れやすいバンドを、要所要所で締める役割をしっかり果たしていて、さすが。彼のギターソロもすごく良かった。彼がソロを弾く時、気持ちのテンションを上げ、エネルギーをぎゅっとコンプレッションをかけるようにしぼりだしていく感じがあります。音の芯に熱を帯びたフィラメントのような何かがあってそれは彼独特。昔も今も変わりありません。コンパクトなソロパートながら、バンドがクッと盛り上がりアクセントになっていました。他のメンバーから信頼されてるのが傍目からもわかります。同じ仲間として彼を誇りに思い、すごく嬉しくなりました。

私自身もニューオリンズの町と人々の暮らしぶりから少なからず影響を受けたと思います。それを一言でいえば、お金や物がなくても人生を楽しめるんだという事、そのコツみたいなものを学びました。彼らの音楽にもそういう享楽的な心が溢れています。現在私の音楽はかなりストイックな方向性ですが、ストイックであると同時にあの「楽勝ゆるゆる感」も持ち込めたらいいなあと思いました。一見矛盾するようですが、自分にストイックであっても、同時に「根っからの寛容さ」、「結果に対する楽天性」も兼ね備える心境は十分有り得ると思います。難題ですが全ては自分の心の持ち様、これからの目標が一つ新たに増えました。

日本に居ながら、久々にニューオリンズの空気を味わい、色々思うところの多い一夜でした。

真珠の耳飾りの少女

2012/08/16 at 15:15

「真珠の耳飾りの少女」に会ってきました。上野東京都美術館で開催中の「マウリッツハイス美術館展」です。以前から写真やポスターで見る度に、この作品に神秘的なオーラが感じられ、いつかこの少女に会いたいと思っていました。人気が高い展覧会はゆっくり絵を見る環境から程遠く、特にこの作品は長蛇の列。それでも、フェルメール独特の鮮やかな光をたたえた静謐さに触れると、周りの喧噪を忘れてしまいました。本当に見事な作品でした。

この展覧会は17世紀のオランダ・フランドル絵画の逸品が並び、殊にレンブラントとルーベンスの作品は、時代と文化や人種を超えて訴えかけてくる強い力に圧倒されました。見終わって外に出たら、真夏の上野公園はどこか遠い異国の景色のようでした。

3つのオーケストラ

2012/07/07 at 02:41

約1週間のあいだに続けて3つのオーケストラを聴きました。いずれも@武蔵野市民文化会館。6月26日ミハイル・プレトニョフ指揮/ロシア・ナショナル管弦楽団、7月2日レオシュ・スワロフスキー指揮/スロヴァキア・フィル、7月3日リオール・シャンバダール指揮/ベルリン交響楽団 。

3日とも中央前の方、だいたい同じあたりに席をとったので、オーケストラの音の違いがはっきりわかって興味深かったです。ロシア・ナショナルはチャイコフスキー、スロヴァキア・フィルはスメタナとドボルザーク、ベルリン・シンフォニーはメンデルスゾーンとベートーベンと、いずれもお国の作曲家の作品を中心に演奏しました。またそれぞれ、ソリストを迎えてのコンチェルトが1曲ずつ。続けて聴くと色々思うところ大でした。

この中で一番だったのは、プレトニョフのロシア・ナショナル。指揮者もオーケストラも世界トップクラスでした。(チケット代4,500円は超お買い得!)ロシアのオケに共通するのは音が太い事、その例にもれず、それぞれのセクションの音が棒のように目の前に飛び出てくる感じ。しかし決して粗野ではなく、室内楽のような緻密なアンサンブルはみごとでした。特にチャイコフスキーの4番は圧巻。この曲はプレトニョフの十八番、スコアの隅々まで緻密に解釈し尽くされ、手勢のロシア・ナショナルも彼の意図を十二分に理解し、無駄のないタクトに大変説得力のある反応を返していました。それだけでなく、ロシアのオケがチャイコフスキーを演奏すると燃え上がるといわれますが、前の席だったので、プレトニョフも奏者一人一人も段々熱を帯びてくるのが身近に感じ取れました。終楽章の怒濤のtuttiはほんとにすざましかった!音楽が「出来事」になるひと時でした。

スロバキア・フィルはモルダウ、ドボルザークのチェロ協奏曲と新世界。お国の作品なのでやはりオケも指揮者も熱くなりました。実は、ドボルザークのチェロ協奏曲は私にとって思い出と思い入れのある作品です。高校生の頃、ラジオでロストロポーヴィッチ+カラヤン+ベルリン・フィルを聴いてぶっ飛び、貯金をはたいてLPを買いに走りました。聴く度に気持ちが熱くなるこの演奏に夢中になりました。その1年後、新聞でロストロポーヴィッチ+N響伴奏のリサイタルがある事を知りました。何と一晩でチェロ協奏曲3曲をやるという今考えると信じられないようなプログラム!1971年11月06日東京文化会館、この日最後にドボコン。この作品は恐らくロストロポーヴィッチ自身にとっても特別なものがあるのでしょう、明らかに気迫のこもり方が違うように感じられました。オケの序奏部が終り、チェロパートの出だしがはじまると、もう私の胸が熱くなりっぱなし、涙が止まりませんでした。生で聴く彼のドボコンは言葉にならない程壮絶。一人の人間がこれほどまでのエネルギーを内にを燃やし、それを強烈な集中力で一音一音に込めていく様は、何か信じられないものを目撃(聴撃)しているかのよう。人生の大事件でした。こんな経験からドボコン=ロストロポーヴィッチというイメージが強すぎて、しばらく他の奏者の演奏には目もくれませんでしたが、ある時フルニエ(セル+ベルリン・フィル)を聴き、ロストロポーヴィッチとは全然違う(剛のロストロポーヴィッチの対極!)本当に素晴らしいドボコンに出会い、目を開かれる思いをしました。(この事については機会があったらまた述べたいと思います。)それから、シュタルケル、デュプレ等色んな演奏を聴くにつけ、この作品の持つ様々な魅力を理解出来るようになりました。光の当て方で違った顔を見せる懐の深い作品で、人間の創作物のなかでも大傑作の一つだと思います。あまりにも色んな演奏をたくさん聴いたので、この作品の要所、聴き所でソリストが、そして指揮者とオケがどう演奏するか?と聴いてしまう自分がいて少し嫌になりますが、どうにも仕方がありません。話は戻りますが、7月2日のソリスト、ヤン・スラヴィクさんとスロバキア・フィルはいずれもロストロポーヴィッチやフルニエ、カラヤンやセル、BPOのスゴさには及びませんが、まことに「誠実」な演奏で十分心にしみました。この演奏に接して「誠実に演奏すること」の大切さを改めて再認識しました。この日最後は新世界でしたが、これがとてもよかった。今まで聴いた新世界とは違い、あんなに情緒と熱気のこもった新世界はとても新鮮でした。さすがお国の血が音に出ますね。スロバキア・フィルの音は剛のロシア・ナショナルとは対照的に、柔らかさが魅力的でした。世界の中堅、実力のあるオーケストラがノッた時のいい演奏を聴かせてもらいました。

ベルリン・シンフォニーは一昔前のオケの音でした。決して悪いわけではありませんが、指揮もオケも凡庸で、前出の二つのオケに比べて聴き劣りがしました。しかし、メンデルスゾーン・ヴァイオリン協奏曲のソリスト、イリヤ・カーラーさんは良かった!このコンチェルトもハイフェッツを始め、色々たくさん聴きこんだので、ドボコン同様細かく聴いてしまうのですが、大変説得力のある演奏でした。この日の一番!

話は戻りますが、ロシア・ナショナルとサン・サーンスのピアノコンチェルトをやった松田華音さんは若干15歳。申し分ないテクニックとほとばしる輝く才気があり、将来必ずや世界に羽ばたくに違いないと確信させる演奏でした。楽しみな目が離せないピアニストです。(同じピアニストとして、少し羨望を込めて。)

オケを3つ続けて聴くなんて滅多にないので、面白い経験でした。大昔に聴いたドボコンの印象が蘇ってきたりして、内面的にも興味深かってです。